裸足と水流

「お盆休み」の時期になると「えんびふらい」という言葉の登場する”あの作品”を思い出す。”小学校の国語の教科書に出ていたあれ”といって、通じる人がどれくらいいるだろう。

あの頃の私はエアコンなんてもののない家にいて、夜になると、網戸の間から滑り込んできた虫たちが居間の蛍光灯に集まるのを畳に寝転びながらぼんやり眺めて過ごしていた。夏休み。一日中外を走り回って過ごして、日焼けをして、お腹をすかせ、食べたあとにはごろりと横になる。夜の記憶は、とてもゆっくり。汗ばむ肌を、夜風がしずかに冷やしていく。

故郷に帰る、という情景の中には、いつも少しの寂しさがある。その寂しさは、日焼けした好きなだけ走り回って過ごしていた痩せた少女時代の記憶はすぐここにあるのに、身体はその頃に同期できないことだとか。昔と少しも変わりのない仏壇の前で手を合わせる習慣とお線香の香りのことだとか。それは、見慣れた川に足を踏み入れ、立ちつくしているうちに、その流れや水温が予測できないほどにくるくる変わり続けている様子に驚きを隠せずにいる感覚にも似ている。

知っている場所であってほしい。でも、刻々と姿を変え続けているのですね、あなたは。

— そのことへの気づきが、寂しさの源にあるのではなかろうか。

今年のお盆休みは、小学生の頃に訪れた遊園地で過ごした。そこで現在展開されている出来事に関心を向ける代わりに、私はずっと、記憶と会話をして過ごしていた。”あの頃”からいままでの、30年。”いま”からこの先の30年。私たちを包む空気はどう変わっているだろう。視界の中心を占めるものは、どんな情報であるのだろうか。

身体が捉える情報を忘れないでいようと—。冷房の効いた部屋でこの文章を綴りながら、ふと考える夜でした。


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