この言葉は、私が悪戦苦闘を経て見出した、自分に勇気を与えてくれるメッセージです。
ここでは、私がその気持ちに辿りつくまでの道筋を少しご紹介したいと思います。
1975年3月。栃木県宇都宮市、鬼怒川のほとりの自然豊かな土地に暮らす兼業農家の長女として私は生まれました。祖父母と両親、そして4人の子どもたちという大家族での、やわらかな土と水音を近くに感じる、陽のあたる縁側のあたたかな暮らし。冬になると日光連山からの冷たい風が吹きつけ、夏には夕立の激しい雨により、土の香りが一層鮮やかになる。そんなふるさとの風景が、いまも私の原点にあります。
ふるさと。春の風景
幼い頃、歌うことが好きだった私は、まわりの大人たちからよく(明るく元気なお子さんですね)と言われていたそうです。けれど、そんな私が、あまり得意でない場所がありました。最初に出会った小さな社会-幼稚園です。
背が小さかったので、幼いながらそのことがコンプレックスとなり、大勢の前にでると気後れしてしまいました。何かを尋ねられても率先して手をあげることができず、お遊戯やお芝居など、本当はやってみたいことにも挑戦する機会を逃してしまう。勇気が出せなかったことで、自分のわくわくした気持ちを気づいてもらえなかったことがとても寂しく、周りが笑ってくれるのが嬉しくて、柄にない(おもしろい人)を演じることもありました。ただ、自分らしく、くつろいでいられたらいいのに。どうしてそれが難しいことなのだろう。それが、幼いころに抱いた疑問のひとつ。
そしてもう一つが、世の中の不思議なルールへの気づきです。幼稚園の七夕で、将来の夢を書いてと言われたとき、私は本気で(魔法使い)と書きたかったのですが、(そんなことを書いたら笑われるよ)、と誰かが言うのを聞いて怖くなってしまいました。そして(かんごふさん)と嘘を書いたのです。自分の本当の気持ちを言うよりも、大人が喜ぶことを言った方が安全だ。そんな不思議な気持ちを学び始めた最初の頃の記憶です。
大人になることについての不思議。その象徴的な記憶は、幼い頃、テレビでイラン・イラク戦争を伝える映像をみたときのことです。(これってなんなの?)大人に尋ねると(戦争だよ)と教えられました。戦争とは、国と国が争うこと。そして、その(争う)という選択をしているのは、国を動かす人たち、つまり、大人です。(喧嘩はよくないよ)(人を思いやることを大切にしよう)と教えているのは大人たち。でも、その反対のことを、大人が、しかも国を代表するような大人が選んでいる。
じゃあ、大人が教えてくれていることって一体なんなのだろう?私は強く疑問に思いました。
私たちが学んでいることは、本当に大切なことのために、役に立っているのだろうか。その疑問はその後(受験勉強)という言葉に出会ってから、さらに大きくなっていきます。(いい成績をとる)と先生は褒めてくれる。でも、成績が悪いと時には人格までもが否定される。
思春期は気持ちが繊細で、勉強よりも友だちとの関係や、自分が周りからどう思われているかといったことがとても大きな意味を持ちます。それなのに何故、偏差値やどの学校に入るかということばかりが大事なこととして扱われるのだろう。
反発もあり、中学時代は、当時(不良)とみなされていたバンド活動に参加し、(革命)という言葉を掲げて生徒会に立候補し、校則など大人たちが押し付けるルールを見直そうと活動しました。
管理教育に疑問を抱き「ぼくらの七日間戦争」に共感した中学時代
より広い世界を知りたい。そのために、英語が話せるようになりたい。そんなシンプルな動機から高校時代には交換留学のプログラムに応募しました。お金もかかることなのにどうしようかと考えていると、運良くその年から始まった栃木県の奨学金を受けることが決まりました(運の強さは私を特徴づけることのひとつです)。
行き先は、アラスカ。ホストファミリーはあまり知られていない宗教を信仰する家でした。初めての海外生活は、言葉が通じないことだけではなく、多数派の人たちと文化的背景を共有していない(マイノリティ)としての自分を強く意識する最初の経験でもありました。学校には、イヌイットと呼ばれる先住民族の子どもたちがいました。
アラスカの象徴のように捉えられる彼らですが、異なる価値観の間で苦しみ、社会からドロップアウトしたり自殺する若者が高いという話を聞いて複雑な気持ちになりました。自分が大切にした価値観が、ほかの価値観では(遅れている)と笑われるものにもなる。それは、田舎育ちの私が、都会育ちの友だちから農家の生活をばかにされた時に感じたショックと重なりました。
異なる価値観をつなぐものはなんだろう。いつしか私は、(平和に貢献すること)に関心を持つようになりました。そして、国連という存在に憧れ、職員を多く輩出している国際基督教大学(ICU)に進学しました。
アラスカのホームステイ先にて。言葉の通じぬもどかしさを痛感した時期
大学で平和学を学び出会ったのが、ヨハン・ガルトゥングの掲げる(積極的平和)という概念でした。単に戦争がないという(消極的平和)を超えて、貧困や差別といった構造的暴力のない状態を目指していくこと。
その観点に大きな希望を感じた一方で、世界の平和というのはあまりにテーマが大きすぎて、無力感を感じることも多くありました。模擬国連というサークルを通じて国際会議に参加する機会にも恵まれましたが、自分としては、平和に貢献するという感覚に本当の意味でつながりきれていなかったのだと思います。
就職活動でサークル時代の活動がアピールポイントだと助言を受けるたびに、偽りの自分を演じなくてはならないように感じ、こころが揺さぶられました。そして、劣等感と焦りを感じるなかで、次第にうつ状態に陥っていきました。
自分が誰なのかわからずに、まわりともどうつながってよいかわからないその時期は本当につらくて苦しいときでした。幸いにも一社から内定がもらえていたけれど、友人や社会と関わることに精神的に疲弊して、学校も休みがちに。苦しみからなんとか逃れようとカウンセリングや心療内科、精神療法に手当たり次第に通っていました。薬物療法を受け、偽名を使ってメンタル・ヘルスの問題で悩む人たちのオフ会に参加したこともあります。苦しむための正当な理由が欲しくて、診断名を求めて医者を渡り歩く時期もありました。しかし、診断名をもらっても、今度は診断名が(私)という固有の人間を上書きしていくような気持ちになり、さらに息苦しくなっていきます。投薬の成果を確認されるだけの診療に、なんのための治療なのだろうと疑問も感じていました。
社会人になってからも数回、このような時期を繰り返しましたが、自分が生きていくのもやっとの時期に、高いお金を払ってカウンセリングを受けることは本当に大変なことでした。落ち込むだけ落ち込むと、その絶望をこれ以上生きられないという憤りから、かろうじて私は立ち上がっていったのです。求めていたのは、自分の力でたちあがれるという信頼を取り戻すことだけなのに。
自分を取り戻すきっかけは、憤り以外にもありました。自然の豊かな空間で、ただくつろぐ感覚を取り戻すこと。それから、決めつけることなく、ただ無心に話を聴いてくれる誰かの存在があること。振り返るとさまざまな巡り合わせにおいて、私は恵まれていたのだと思います。
人が自分の真の願いとつながり、立ち上がる方法を、自らの力で見いだす方法はないだろうか。いつしかそれが、とても大きなテーマになっていました。
大学卒業のタイミングで演劇に出逢ったことが、生きる感覚を取り戻す大きな力となった
外資系IT企業の人事部で人材育成に携わり、人が成長を通して喜びを持って仕事に向き合う姿を目撃したことは、私のキャリアのスタートとしてとても大きな意義を持つことになりました。業界やポジションは関係ない。人としていきいきと働ける環境を創造できる人になりたい。そのためにより広いビジネスの世界に触れようと、ジョブローテーションに応募したり、コンサルティング企業に転職し、海外ITベンチャーと日本企業のマッチングを手がけたり、アニメーションのベンチャーに転職して海外原作のプロデュースをサポートするなど、人をつなぎ、そのつながりの質を高めることによって機会を創造する仕事に携わり続けました。
東京で働き始めておよそ10年が過ぎたある日、ふと(このままでいいのだろうか)という疑問が心に浮かびました。東京の、なに不自由ない暮らし。そのことが何か重大なことを見えなくしている気がする。直感としか呼びようのない感覚です。あてもなく、その時ふと心に浮かんだ(名古屋)に引っ越すことを決めました。偶然にも自分が思い描いた通りの場所で気に入った物件に出会い、運命的なものを感じてしまったのです。
人事部時代。香港のアジア・パシフィック本部にて
名古屋での偶然は、新しい世界の扉を開くきっかけとなりました。共通の友人を持つ人たちとの出逢いから、2010年に名古屋で開催される生物多様性条約の国際会議(CBD-COP10)にNGOの立場で関わることになったのです。生物多様性とは、(すべてのいのちがつながりあって生きている)ということ。単に植樹をしてグリーンを増やそう、というのではなく、樹木やそれを植える土地、そこに暮らすいきものやその環境に根づいた文化など、生物をつながりのある全体性として捉えていく考え方です。なんてわくわくする視点なのだろう……けれども、その生物多様性が今、ものすごい勢いで失われようとしている。そんな大切なことを、私たちの多くはほとんど考えることもなく暮らしている。そのことに大きなショックを受けました。このことを伝えたい。そして、当時はほとんど知られていなかった(生物多様性)や(サスティナビリティ)をテーマにライターとして活動を始めたことが、会社員生活をやめ、フリーとして活動し、さらに独立をした現在の暮らしにつながります。
生物多様性条約関連会合inモントリオール。この頃から海外での会合に多く参加するようになる
2011年の東日本大震災の体験。それから2012年の国連持続可能な開発会議(リオ+20)。そして、その先のSDGs(国連持続可能な開発目標)の策定に関わるプロセスの中で、考え続けたのは、人が人生に、社会に、未来に何を求めるのかということ。そして価値観の違いから生まれる対立にどのように向き合っていけばよいのかということでした。
国連持続可能な開発会議(リオ+20)で女性メジャーグループを代表し記者会見に登壇
そんな疑問を抱えるなかで出会ったのが、NVC(非暴力コミュニケーションNonviolent Communication)をいう考え方です。
感情を、その人が大切にしているもの(ニーズ)を知るシグナルと捉え、(大切なもの)を軸に、コミュニケーションを紡いでいく。人間性から人と出会い、共感でつながりを育んでいく。シンプルながらとても深いこのアプローチは世界の紛争解決の現場ばかりではなく、家庭やコミュニティ、企業活動などさまざまな分野で活用されています。
こころと言葉の関係を清らかにしていく力。そんなエネルギーと可能性を、私はNVCに強く感じました。以降、全国、また世界を飛び回り、オンラインも駆使して、日々学びを深め、新たな価値の創造に情熱を注いでいます。
生きているといろいろなことがあり、対立することももちろんあります。けれども人は、そこから大切なことに気づいて、創造的に新たな可能性を導きだす力をきっと持っている。私はそう強く信じています。(争いのない世界)ではなく、(争いを超えた選択を創造しつづける社会)を目指すことへの情熱を込めて。
2017年、マウイ島で開催された紛争解決をテーマにしたNVC国際集中合宿にて
世界の実践現場から学びNVC意識を伝える学びの場 「NVC大学」の講師として活動中
2018年3月 三浦国際マラソンにて10年ぶりのハーフマラソンに挑戦、記録を更新。身体性を通じて和を尊ぶ気持ちを身につけたいと2013年より合気道を学び続けている