ことばと、距離と。

お盆と花火大会にあわせて帰省をした。拠点である鎌倉と実家のある宇都宮は湘南新宿ラインという電車で一本。毎月のように帰っているので帰省といっても大げさなものではないが、家族・親戚が揃うので、この時期は特別だ。姪や甥っ子は、私を(おおきな木)か何かだと思ってくるのだろうか(そして自分をコアラかパンダだと思っているのだろうか)。こぞってよじ登ってくるのが面白い。

花火大会に向けて河原に人が集まりだした、夕方に差し掛かるにはまだ早い時間に、急に大雨が降り出した。通り雨だろうと思っていたが、次第に雨脚はさらに激しくなる。長引く雨とその激しさに、あえなく大会は翌日に延期されることになった。仕方がないので、残念がりながら、皆で居間でご馳走を食べる。持つのも大変なくらい大きなスイカをいただいたので、子どもたちは大はしゃぎで豪快に喰らいつく。

「子ども時代」を過ごしたこの家にいると、自分たち以外の誰かのことを「子ども」と呼ぶことに不思議な気持ちがするということに、この文章を書きながら気づいた。自分たちはとっくに大人だというのに。どこか記憶が子どもの時代に引き寄せられる場所。同時に、今やこの先のことを具体的に考える気持ちともつながらせてくれる場所。

ところで、最近、人前で栃木の方言で話すということを好んでしている。そんなに訛っていたっけ?と思うこともあるのだが、地元にくると、例えば駅デパートの店員さんと話していても、ごくナチュラルにイントネーションがそちらに戻っていく。

人とのこころの距離を縮めるのに、「コミュニケーションのスキル」という言葉の存在が、もっともその本質から遠ざけているような気がする。身体全体で感じているコミュニケーションが、ある特定部位の脳の話にすり替えられてしまうような。

その人らしかったり、おもわずほっこりしてしまうような表現や言葉の交わし方は、こころや身体に染みついたものの中にある。だから、もしも「目指すもの」なるものがあるならば、それも、身体が知ってることに尋ねていけばいいのではないかと、私は思うのだ。

例えば「一緒に、スイカに喰こう!」というような、瑞々しい世界に。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です