知ること・学びほぐすこと

それはまだ、小学生の低学年くらいだった頃の話です。
スペインから、同じ年くらいの姉弟が
私の家に遊びに来たことがありました。

お父さんがスペイン人、お母さんが日本人というふたり。
日本語はほとんど知らなくて、普段の会話はスペイン語です。

私も、私の妹弟も、まだ幼くて日本語以外の言葉は知らなかったので
ふたりと遊ぶときには
あちらはスペイン語で、私たちは日本語で
身振り手振りで、伝えたいことを伝えあって
夢中になって遊んでいました。

「見てみて!」とか「おもしろい!」とか。
「ああ、もう、疲れたのかな」とか。
そういうことって、不思議と伝わってくるのです。

言葉は全然わからないのに
お腹の底から笑いあって過ごした時間。
それは、やはりスペイン語しか話さない
ふたりのお父さんとの間も同じで
私たちにとって、あの家族が遊びにくることが
楽しみでたまらないできごとでした。

それからしばらくして –
おそらく、私が中学校の高学年になった頃でしょうか –
あの家族が、また、私の家を訪れることがありました。

もう、英語を勉強していたし
あの姉弟も英語を勉強していたと聞いていたので
「今度は英語で話せるね」なんて、話をしていました。

「あの頃よりも、もっと、たくさん話せるかな」
そんな気持ちで、ドキドキしながら。

けれども、蓋を開けてみると
お互い大人になって、昔のように(ただ、遊んでいる)という
感覚を忘れたからなのか
「(伝わるはずの)英語で互いを理解する」という考えに
頭を支配されていたのか
思ったほど、うまく通じません。

「英語で話す」ということへの周囲の期待もあるからか
気持ちも力んでいたのでしょうか。
お互い思春期のティーンネージャーになって
緊張もあったのでしょうか。

あれ?
言葉なんて全然通じなかった、あの頃の方がずっと楽だった?

どこかもどかしい、コミュニケーションでした。

「言葉」ってなんだろう。
「通じ合う」ってなんだろう。

そんなことを考えるきっかけとなったこの出来事のことを
私はいま「共感コミュニケーション(NVC)」というものを伝えるにあたり
とてもよく思い出します。

互いの意思疎通に役立つと思って学んだ「英語」が
自由な通い合いの妨げにすらなりえたように

互いを深く理解するために得た「共感コミュニケーション」なる言語が
自然なつながりが生まれることを、難しくすることもあるかもしれない。

「これを知っていれば、きっとわかりあえるはず」
という考えにとらわれるとき、ひとは
「つながりあうって・わかりあうって・どういうことだろう」
という、そもそものことが、時々見えなくなってしまう。

気持ちがみえなくなるほどに
どうか、頭にこころを奪われないで

そのことを伝えたくて

学ぶことと、学びほぐすこと。
その両方のためのスペースを用意することを大切に

場づくりに励むこの頃です。

大切に想うものはありますか?
その、大切に想う気持ちから生きるとしたら、
どんな感じがするのでしょうか。

「しなやかな心を育てる共感コミュニケーション」(NVC基礎)
オンライン講座。8月5日、開講します。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です